ホグワーツ魔法魔術学校には多くの謎が潜んでいるが、最大の謎は──寮の合言葉はなぜこうも、毎回ややこしいのか、である。
「あぁ、もうまたわかんなくなっちゃった!」
エリーナはひっそりと廊下に並ぶ松明の炎を見つめ、深く息をつく。炎はエリーナの苛立ちも知らず、ゆらりと風に揺れている。あたりはもうすっかり暗くなってしまっていて、実を言うと、怖い。早く自室に戻ってあたたかいココアを飲みたい。そう思えば思うほど、焦りは強くなっていく。
「困ったな……マクゴナガル先生に聞きに行くのもなんだか恥ずかしいし……」
太った婦人は助けてくれそうにないし、他の肖像画もやれ何だと集まってきていて、気まずさは増すばかり。
突然ぽんっと強く肩を叩かれ、エリーナは「ひぃやあぁ」と言葉にならない声を出した。
「エリーナ、何してんの?」
振り返ると、赤い髪が松明の光に揺れ、笑みを浮かべたビルが立っている。柔らかい表情が暗い廊下に温もりを落とした。
「ビル! あ、いや、えーと」
こんなタイミングで会う!? いや、今は天の助けと言っておこう。でも、正直に言う? 恥ずかしすぎる!
エリーナの心の声はこんな具合で、でも少しホッとする自分もいる。
「……忘れたの」
エリーナの小さいな声に、ビルの眉が軽く上がった。
「……。ふーん、何、もしかして」
「ええ、そうよ! 合言葉忘れたの!」
言うしかなかった。だって、今日寝られないかもしれないんだもん。一生帰れないなんて耐えられない。
「……ふっ、く、エリーナ、マジで言ってるの」
「そーよ!」
あっはっはとビルが笑い、肩を揺らすたびに光も揺れた。そ、そんな笑わなくても、というかそんなふうに笑うビル、初めて見た。
「ありえないだろ、そんなの。何年ホグワーツにいるんだよ」
「意地悪! そんなに言わなくてもいいじゃない! ばか!」
肖像画の騎士が「おお、情熱的な言い争いではないか」と言っているが、耳にはビルの声しか届かない。
「ひどい言い草だな。それはこっちのセリフでもあるんだけどな」
「……っ言いすぎた。ごめん。暗いところ苦手なの」
「怖い?」
「早く入りたい!」
どれだけ必死な顔をしているかを知らないエリーナは、ビルのしょうがないな、とふっと笑った顔に安堵を覚えた。その笑顔に優しさが滲むのを見た。
太った婦人に向き合ったビルは、少し背を伸ばして言葉を紡ぐ。
「Amor Vincit」
低めの声が響く。余裕が感じられた。
「あら、やっと正しいものが聞けたわね。お二人さん、アモーレ ヴィンチット! 素敵な夜を」
サッと扉を潜ったビルはこちらに向き直り、手を差し出す。
「ほら、手貸しなよ」
指先が触れた瞬間、エリーナの心臓が跳ねる。
「……ありがとう」
「貸しひとつな」
「……うっ」
意地悪なようで、ビルの視線は柔らかい。談話室は暖炉がまだついていて、暖かかった。ビルは手を握ったまま、ほんの少し身を近づけて小さく笑う。
「じゃあまた明日、エリーナ。おやすみ」
男子寮の階段を上りかけたビルは、急にこちらをくるりと向いた。同じく上りかけていたエリーナはちょっと驚いて立ち止まる。
「なぁ、エリーナ」
「ん?」
「次からは迷わず俺に聞けよ」
ビルの顔は真剣で、先ほどのからかいの表情はどこにもなかった。
「じゃな」
ビルは今度こそ、階段を軽快に駆け上がっていった。その顔が赤いことを、もちろんエリーナは知らない。
「……悔しいけど、カッコいい」
彼の姿が見えなくなった頃に、エリーナはそっと呟く。その顔もまた、赤く染まった。夜のホグワーツが、少し愛おしく感じられた。


※コメントは最大500文字、5回まで送信できます